ー 学生時代は、どんな学生でしたか?
いや、学生らしい生活をしたことがないですからね。小学校の高学年から「プロになるんだ」と思って野球漬けでした。ちっちゃい頃は、ボールを握りながら学校に行って、授業中もボールを握っていました。兄貴も甲子園に出てますが、
母親には「野球のせいで家族がバラバラになった」って泣かれたこともあります。家族旅行なんて行ったことないですし、遊園地にいったこともないし、デートもしたことないし(笑)。毎週、毎日、野球していました。高校3年間で部活が休みだったのは、2日間だけじゃなかったかな。始発で登校して、終電で下校するような生活でした。だから、普通の学生がどういうものか分からない。
ー その努力が実って巨人軍に入団しましたね。
一軍に定着するまで6、7年くらいかかったんじゃないかな。
どんなに頑張っても報われなきゃ、努力じゃないですし、結果が伴わなければ、それは、"あがき"だと言われました。やっと結果を出してレギュラーに定着してもけがで離脱したり。「30試合持たない男」なんて呼ばれました。
ー 代打の切り札として、ファンからの絶大な支持がありました。それでもファンの期待ほどには、出場機会は多くなかったように記憶してますが…。
そんなことはないです。使うのは監督ですし、その部分をコントロールはできないですからね。使われないのは、自分に何かが足りないから。
使ってもらうには、信頼を積み上げるしかない。一回しくじったら、その信頼は失いますけど、また積み上げればいいだけ。信頼を失うのは早いですよ。それで、
続けることの大事さを学んだと言うか、続けて結果を出していくことの楽しさ、と言うか…。ここであえて"楽しさ"、と言いましたが、窒息しそうなプレッシャーの中で悩んだ時期もありました。
ー 何回かは辞めようと思ったこともありますか?
辞めようと思ったことはないです。せっかく、ちっちゃい頃から野球だけに生活をささげて、プロ野球選手になれたんですから。さっきも話しましたが、高校時代は、始発、終電の生活。それでもお母さんは帰るまで、起きて待っていてくれた。 そして寝るのは僕が寝た後。 朝は僕よりも先に起きて、食事を作ってくれていました。だから「お母さんはいつ寝ているのかな?」ってのが、あの頃の想い出かな。家業のそば屋を切り盛りして、昼は寝る暇は無いはずなんです。母にはただ感謝です。
(面接などで)僕は、その人を知りたいときに、ひとつだけ、必ず聞くことがあるんですよ。「あなたは誰に感謝していますか?」って。
かつて、僕はこの質問に即答できなかった。今ははっきりと答えることができます。僕は親ですよ。答えは、人それぞれで何でもいいんです。
誰に感謝しているのか。それにすぐに答えられる人を僕は尊敬しますね。感謝の気持ちをもっている人を尊敬します。
ー 2005年に惜しまれながら引退されました。子供の頃からあこがれていたプロ野球選手です。もっとできるという思いはありませんでしたか?
いやいや、そんなことないです。「プロ」と名の付く以上、ごまかしが利かない世界です。やる、やらないは、自分の気持ちですけど、
お金をもらって職業としてやっているならうそはつけない。僕がフロントの人だったら、ベテランに「もう来年はいらないよ」なんて言いにくいでしょうから、自分から「今年で引退します」って言いました。まだシーズン中盤の7月くらいには言ったんじゃないかな。それからはベテランとして、自分の経験を次の世代に伝えましたよ。若手に請われれば、何でも教えました。
ー 選手時代から指導者を目指していましたか?
ええ。辞めると決めてからは、次の目標として指導者を目指しましたね。コーチ、指導者というのは「(僕を指導者として)使って下さい」とお願いするようなものではない。
「力を貸してくれ」と言われるのがプロだと思うんです。僕自身、そう言ってもらえるように勉強し続けています。
ー ニューヨークでのコーチ留学が、大きな経験になったそうですね。
どっかからお金をもらってたら、あれほどのことを吸収することはできなかった。(給与や支援も)ゼロで行ったからね。泊まるところも旅費もすべて自分。アパートも自分で契約しました。だからこそ野球だけではない、いろいろなことを吸収できました。あと、アメリカでは一人の時間が多かったですから、
読書や新聞を読む時間が増えたことも大きな収穫でした。自分で読もうと思ったものから得るものは大きいです。だからと言って若い人に「僕はもったいない時間を過ごしたから、みんなは、若いうちから本や新聞を読みなさいよ」と強要はできない。
人に言われて吸収するものは少ないですよね。自分で行動し、経験することから得ることは大きいですからね。