新潟日報TOP SPORT日報 JOB日報 web assh 新潟の「仕事」情報サイト JOB-NIPPO
新聞を読む 新潟日報 Niigata-Nippo On-Line
2008年7月24日






登録された方には、役立つ就職情報・企業情報をすべて無料でお届けします。



株式会社岩の原葡萄園 製造部/上野翔さん
オシゴトの内容は?
ワイナリーのさまざまな仕事をしますが、主にワイン瓶詰めの監督・オペレーターをしています。瓶詰め機械がトラブルなく安定して稼働するよう管理します。ほかにもぶどうの栽培からワインの醸造まで、製造全般を幅広く行います。

[続きを見る]

かわぶち・さぶろう
1936年、大阪府生まれ。高校時代からサッカーを始める。57年早稲田大学商学部入学。同年在学中にサッカー日本代表に選ばれる。60年第7回チリW杯アジア予選出場。61年早稲田大学卒業後、古河電工入社。64年東京五輪出場。70年に現役を引退し、古河電工サッカー部監督、日本代表監督などを歴任。88年古河産業取締役就任。91年に古河電工を退職。同年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)を設立し初代チェアマンになる。02年日本サッカー協会会長(キャプテン)に就任。近著に自らのサッカー人生やJリーグ誕生秘話、日本代表の舞台裏などを明らかにした『虹を掴む』がある。

1993年のJリーグ発足時、チェアマンという耳慣れない肩書を抱えて登場。以来13年、「Jリーグ百年構想」「キャプテンズ・ミッション」などといった理念と志を発信し、日本サッカー界発展のために力を尽くしている川淵キャプテン。日本でのサッカー人気をここまでのものにした立役者は、まぎれもなく川淵キャプテンなのである。サラリーマン時代からこれまでに至る経緯、夢を持って働くことの尊さを語ってもらった。



―大学を卒業し、実業団サッカーの強豪でもあった古河電工に入社されましたが、当時の仕事とサッカーの関係というのはどのようなものだったのですか。
当時、サッカーは人気のあるスポーツではなかったんですね。三菱、古河電工、東洋工業、日立など、実業団としてサッカーをやっている会社があったけど特に優遇されたわけじゃなかった。僕のいた古河電工で言えば、火曜日と木曜日の午後だけ仕事を休んでサッカーの練習をさせてもらった。土曜日と日曜日も練習。あとは社員と同じ扱い。だからその当時、1960年代は会社にサッカーをやらせてもらっているという感じかな。そういう状況だったから、サッカー部ではない他の社員に負けてなるものかという思いがあって仕事も一生懸命やりました。練習が終わった後も会社に戻って仕事をするということをやっていた。サラリーマンとして好きな仕事をしてサッカーもできてという、両方の意味で良かったんじゃないのかな。

―入社時はどのような仕事をされていたのですか。
はじめは工場の作業の進行管理といった重要な仕事をしていました。でも2年くらいたって東京オリンピックが近づいてくると、僕は日本代表のメンバーだったから海外遠征で2カ月くらい職場を離れることになったんだね。仕事に穴を空けてしまうから重要な仕事はできないということで、わりと暇な職場に移されたんですよ。東京オリンピックの年は4月から10月までずっと合宿所にいて、朝起きて練習して、そこから会社に通って、夜帰ってきて練習してという生活をしていた。
オリンピックが終わってからもしばらくは日本代表でプレーしていたんだけど、その後、外れたので、今度は本社の営業の仕事に入った。営業の仕事は一番自分に向いていましたね。大阪出身で人と話すのが好きだったから。サッカーの日本代表だったということでいろんな人からかわいがってもらいました。サッカーのおかげで仕事もうまくやれたかな。


―33歳で現役を引退されてからは仕事によりいっそう力を入れたわけですか。
古河電工のサッカー部監督も兼任しながら仕事に邁進(まいしん)していった。39歳で課長になったんだけど、43歳のときに古河電工が出資している指定取引問屋の資金繰りがうまくいかなくなってなぜか僕が出向することになった。初めはいやいや行ったんだけど、そこで初めて会社の経営というものを知ったんです。古河電工っていうのは大きな組織だから会社の経営といった全体像は見えにくかった。出向して経営を覚えたというのが、Jリーグ設立時に経営的な感覚で運営できた要因のひとつですね。最初は頭にきて何で俺なんだって上司と大げんかしたのに、自分にとって大きな意味を持つ2年間になるんだからおもしろいですよね。要は気持ちの持ち方。つまらないと思った仕事でも自分の糧になるんだと思って打ち込むことが大切なんだね。

―そこで立て直しに成功し、営業部長として古河電工に戻ったと。
これが同期の中でも出世が早いほうで、このまま取締役ぐらいになるかなって自分も周りも思っていたんだけど、そこからなぜか子会社の古河産業に出向になったんですよね。これが1988年の51歳のとき。これほどショックだったことはないね。そこに出向するということは、年齢的に考えてもう古河電工に戻れないと思った。古河産業でもそこそこまでは行く自信はあったけど、社長になるのは古河電工で副社長や専務をやった人間だけと決まっていたからよくて取締役どまり。これで終わるんじゃ自分の人生つまらないなって思って、何かできないかなと思ったらやっぱりサッカーしかないなと。その頃のサッカーというのは人気がなかったしレベルも低かった。このサッカーを日本で人気のあるスポーツにしたいと強く思ったわけです。そういう仕事をできればと思い、もう一度サッカー界に戻ったんですよ。古河産業への出向という本流から外れたようなことがなければ、サッカー界には戻っていなかったと思う。今にして思えばそれが大きな転機だったんですね。
これが1988年の51歳のとき。これほどショックだったことはないね。そこに出向するということは、年齢的に考えてもう古河電工に戻れないと思った。古河産業でもそこそこまでは行く自信はあったけど、社長になるのは古河電工で副社長や専務をやった人間だけと決まっていたからよくて取締役どまり。これで終わるんじゃ自分の人生つまらないなって思って、何かできないかなと思ったらやっぱりサッカーしかないなと。そのころのサッカーというのは人気がなかったしレベルも低かった。このサッカーを日本で人気のあるスポーツにしたいと強く思ったわけです。そういう仕事をできればと思い、もう一度サッカー界に戻ったんですよ。古河産業への出向という本流から外れたようなことがなければ、サッカー界には戻っていなかったと思う。今にして思えばそれが大きな転機だったんですね。


―そこからはもうサッカーでいこうと決めたわけですね。
ちょうどそのときにタイミングよく日本サッカーリーグの総務主事になったんです。もちろん仕事でもしっかりと成果を出していった。でも、それからちょうど2年ぐらいたったときに、やはりプロ化のためにすべての力を注がないといけなくなってきて、会社を辞めさせてくれって伝えた。そうしたら「どうなるかわからないからまだ辞めなくていい。はっきり自分の生活が保障されたら辞めればいい」と会社が言ってくれてね。やるべきことをきちんとやって、そのうえでサッカーにも取り組んでいたから、どちらもプロとしての意識を持ってやっていたから、僕のそれまでの成果を認めてくれていたんですね。そして1991年のJリーグ設立と同時に退社し、1993年にJリーグを開幕したというわけです。

―現在はどのような志を持って仕事に取り組まれているのですか。
サッカーというのは国内だけの競技じゃなくてインターナショナルな競技。世界の中での位置づけというのを一番求められるんですね。世界の舞台で活躍できる代表チームと草の根レベルでのサッカーファンを増やすという底辺の拡大。これが車の両輪。特に草の根の基礎作りというのは重要で、子どものころからスポーツに触れて、サッカーを好きになってもらい、優秀な子にはエリートコースを歩ませて、日本代表、あるいは世界に飛躍していく選手を育てていく。これができて初めて日本のサッカーは右肩上がりになっていく。僕は今、大きな使命感を持ってやっているんです。年とともにその志はどんどん高くなっている。こういうことに自分が邁進していくことは、日本のサッカー界のみならずスポーツ界にとっても、日本の国民にとっても絶対プラスになっていくと思っているんです。サッカー界だけよければいいという気持ちはまったくない。だから、今すぐワールドカップで優勝しろっていうのは無理な話。すぐには強くならない。まずは基礎作りをしっかりやること。それが将来、日本のサッカーが世界のトップに近づくことにつながる。何十年も先になったときに「あのとき川淵がやってくれたから今の日本サッカーがあるんだ」と思ってもらえることを僕は今やっている。目先しか見えない仕事はダメなんだよね。それが今の日本サッカーには一番必要なんですよ。僕の最後の人生をかけるつもりで突き進んでいっていますよ。

―最後に、就職を控えた若者に向けてメッセージをお願いします。
僕がすすめたいのは本を読むことだね。世の中に出ていろんな仕事を進める中で、知識というのは絶対になくては相手に認めてもらえない。知識を獲得するためには本が一番なんですよね。まず本屋に行って表紙や中身をサッと見て、おもしろそうだなって思う本を3冊ぐらい買う。家に帰って読んでみておもしろくない本は途中で止めればいい。買ってきたら必ず全部読まなきゃいけないと思うと負担になっちゃうから…。その中で、興味のある個所が出てきたらどんどん突っ込んで調べてほしい。僕は三日坊主というのを奨励しているんです。三日坊主って何か興味を持って取り組み始めたということだから。この取り組む姿勢が大切で、いろんなことにトライしていくうちに好き嫌いがわかってくる。そのうちに、これはおもしろいっていうものに必ず突き当たるはずなんですよ。三日坊主こそが自分の一生付き合っていけることに出合う秘けつだと思う。だから何でも興味を持って挑戦すること。もしつまらなかったらまた次にいけばいいんだから。そのうち没頭できるようなことが必ず出てくる。僕にとってはそれがサッカーだったんだね。それが見つかって夢や目標が出てくると力がわいてくる。人というのは、夢があるから強くなれる。だからこそみんなには、ぜひともいろんなことに挑戦してほしいと思います。


大人になるにしたがって、夢を語るのは照れくさくなってしまう。できるわけないと否定されたり、笑われたりするからだろう。しかし、人というのは向上心のある人にひかれるのもまた事実。夢を公言することによって、思いがけない人が支えてくれたり、手を差し伸べてくれたりもする。そして、自分の世界が広がっていく。川淵キャプテンは、誰もができないと思った夢を公言して、日本でのサッカー人気を揺るぎないものにまで育て上げた。奥ゆかしさ、謙虚さが日本人の美徳とされてきたが、自分の思いをしっかりと周囲に伝え、社会とコミュニケーションをとっていくということが、夢をかなえるためにはもっとも必要なのではないだろうか。
Text:山田英行


[戻る]


本ホームページに掲載の記事・写真・動画など、一切の無断転載を禁じます。ご注意ください。
すべての著作権は新潟日報社ならびにニュース配信元である通信社、情報提供者に帰属します。
著作権についてリンクについて個人情報の取扱い
Copyright (C)2005-2008,The Niigata Nippo.

このページに関しては... job@job-nippo.com
広告に関しては... ad@job-nippo.com

にいがた産業創造機構
  • ビジネス知識源
  • 産業支援カレンダー
  • にいがたビジネス物語 人材育成・冬の陣 〜攻めの経営管理を身につける〜
  • 新潟県経営者協会
  • 地域貢献事業
  • 人材育成事業
  • 情報提供事業
  • 新潟商工会議所
  • 新潟県中越地震関連情報
  • 中小企業の自慢の逸品紹介(プレゼント付)
  • 検定試験情報
  • 新潟NPO協会
  • ポータルサイト「ニイゲット」
  • 新潟経済社会リサーチセンター
  • 講演会・セミナーご案内
  • 経済データ
  • 今月の新潟県経済
  • 雇用・能力開発機構にいがた
  • キャリアデザインセミナー
  • 創業・経営改革セミナー「アントレプレナーDo it」
  • 若者しごと館
  • インフォメーション
  • 適職サーチ
  • イベント情報